【ジョジョ解説】4・5・6部から考察するジョジョの人間讃歌とはなんなのか? その②

ジョジョの人間賛歌とはなんなのか? その②/What is Human anthems of JOJO? part2.

『ジョジョの奇妙な冒険』の根幹を成すテーマ「人間讃歌」。

覚悟を持っているが邪悪ゆえに敗北するプッチ神父


【ジョジョ解説】ジョジョの人間讃歌とはなんなのか? その①
ジョジョの奇妙な冒険に登場するスタンド能力を理系的に考察、説明を主にするブログです。deep analysis of jjba.
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前編(第1部〜3部)に続く本記事では、物語がより複雑かつ深淵に進化する第4部・第5部・第6部を徹底考察します。

最強の敵が手にする「運命改変」という絶望的な能力に対し、なぜ主人公たちは打ち勝つことができたのか? そこには、作者・荒木飛呂彦氏が自ら課した「主人公補正(ご都合主義)」という壁への挑戦があったと思われます。

日常に潜む恐怖、過程の尊さ、そして次代へ託される意志。
単なる勧善懲悪を超え、ジョジョが辿り着いた「黄金の精神」の最終回答を紐解きます。

はじめに:人間讃歌と「ご都合主義」への挑戦

『ジョジョの奇妙な冒険』という壮大な物語の根底には、常に不変のテーマが流れている。

「人間讃歌は『勇気』の讃歌ッ!!人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!」

第1部でウィル・A・ツェペリが語ったこの言葉こそが、全編を貫く哲学である。そしてツェペリはこうも語った。「勇気とは怖さを知ること、恐怖を我が物とすること」だと。

では、歴代のジョジョたちが直面してきた「恐怖」とは何だったのだろうか。

第1部・第2部において、主人公たちが対峙したのは「吸血鬼」や「柱の男」といった未知の怪物であった。
人間を遥かに超越した身体能力と寿命を持つ存在への、物理的かつ根源的な恐怖。彼らは知恵と波紋という技術、そして己を犠牲にする覚悟でその恐怖を乗り越えた。

続く第3部では、荒木飛呂彦氏が考える最大の恐怖である**「祖先からの因縁」**が描かれる。
100年の時を経て蘇ったDIOという絶対悪に対し、主人公・空条承太郎たちがエジプトへと旅をする。
これはまるでRPGの勇者たちが「世界の裏側の魔王城から動かないラスボス」に挑むような、王道の恐怖克服物語であった。

荒木氏の創作手法の特徴として、「まず最強のラスボスを創り上げ、後からそれを倒す方法を考える」というスタイルがある。

第3部のラスト、DIOの「時間を止める」という無敵の能力に対し、承太郎はどう打ち勝ったか。それは自身も時間を止める能力に覚醒し、「てめーは俺を怒らせた」という純粋な怒りと精神力でねじ伏せるというものであった。

この結末は読者に最高のカタルシスを与えたが、一方で作者の中に一つの問いを生み出す。
「これは『主人公補正』という名のご都合主義ではないか?」

圧倒的な絶望に対し、同じ能力への覚醒や純粋なパワー比べ以外でどうやって打ち破るのか。この「ご都合主義への自己反省と挑戦」こそが、第4部以降で描かれる恐怖の質の変化と、「運命」というさらに巨大なシステムへの反逆というテーマを生み出していくのである。

第4部『ダイヤモンドは砕けない』:日常に潜む殺人鬼と「運命改変」への勝利

第3部までの「世界の存亡をかけた巨悪との戦い」から一転、第4部の舞台は日本の地方都市・杜王町へとスケールダウンする。しかし、そこで描かれた恐怖は、過去のどの部よりも生々しいものであった。

魔王ではなく「隣人」というリアルな恐怖

第4部の連載時期は1990年代前半。湾岸戦争の勃発や、宮崎勤事件をはじめとする社会に紛れ込む異常者が世間を震撼させた時代である。この世相は、作中の恐怖の描き方に大きな価値観の転換をもたらした。
戦争は遠い異国の、テレビ画面の中の世界となった。このため、遠い異国にいる魔王よりも、「平和な町で平穏を装い、普通の隣人として生活している殺人鬼」の方が、よほどリアルで恐ろしい時代になったのだ。吉良吉影というキャラクターは、まさに「日常に潜む見えない悪意」の象徴であった。町中に潜む恐怖に勝てるのか?これが4部の人間讃歌のテーマである。

強敵に与えられた「主人公のような」能力

さらに特筆すべきは、吉良吉影が最後に手にしたスタンド能力「バイツァ・ダスト」の異質さである。
自身に不都合な事態が起きれば、時間を吹き飛ばして何度も運命をやり直す。これは本来であれば、ループ物の漫画の「主人公」が絶望を乗り越えるために持つようなチート能力である。荒木氏はこの究極の「運命改変能力」をラスボスに与えた。

主人公ではなく「杜王町」が勝つという回答

では、この潜んで都合よく殺人し放題、何かミスがあったらなかったことにする、という吉良に有利な状態に対し、どうやって勝利したのか。
決定的な働きをしたのは、無敵のスタープラチナを持つ承太郎でも、主人公の仗助でもない。スタンド能力すら持たない、ただの一般人の小学生川尻早人である。
彼は何度も周りの誰かが死んでいくループを経験しながらも、決して諦めず、恐怖に立ち向かう正義の心と知恵だけで、吉良の完璧な運命のシナリオに綻びを生じさせた。最後には仗助、億泰康一、承太郎、さらには杉本鈴美、町の人々全員の力が結集して吉良を追い詰める。
第4部の結末は、「選ばれた血統を持つ主人公の強大なパワー」が運命をねじ伏せたのではない。
無力な一般人の勇気を起点とし、杜王町の人々の「黄金の精神」が、絶対的な運命改変能力を打破したのである。これこそが、第3部までのご都合主義的な勝利への、荒木氏の完璧な回答であった。「正義の心と努力が、チート能力に打ち勝つ」。第4部は、市井の人々が日常の恐怖を我が物とする、最も温かい人間讃歌となったのである。

第5部『黄金の風』:「悪」の主人公と覚悟、そして運命論というギリギリの回答

第4部で描かれた「一般人の正義の心と努力が勝つ」という展開。それは見事な人間讃歌であったが、同時に「主人公側が正義だから勝てたのではないか」という、物語特有の補正(ご都合主義)への疑念も生じさせる。
第5部はそのアンチテーゼとして、「主人公たちが社会の悪(ギャング)である」という設定からスタートする。彼らは悲しい過去を持ち、社会からはみ出し、そう生きざるを得なかった者たちである。この悪の陣営につかざるを得なかった主人公勢が巨悪に打ち勝てるのか?これが5部の人間讃歌のテーマである。

直面する恐怖:「結果」の支配と「覚悟」の激突

彼らのボスであるディアボロがもたらす恐怖とは、「結果だけが残る(キング・クリムゾン / エピタフ)」という絶対的な運命支配である。同時に、ディアボロは自らの運命を都合よく改変しようとする「主人公的」な振る舞いを見せる。ジョルノたちもディアボロも「運命を乗り越えようとする」点は同じである。では、悪である主人公が勝つ理由はどこにあるのか。
ここで一つの答えとして示されるのが「『覚悟』とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開く事だッ!である。

荒木飛呂彦が直面した壁と「GER」という必然

ジョジョ5部はインフレを避けてきたスタンドバトルでもついにインフレが進み、敵も味方もスタンド能力が強力になっていた。スタンド能力というよりは、どれだけそのことにすべてを注いでいるか、という「覚悟」のバトルへと遷移していっている。しかし、第5部はこの「覚悟」だけで、運命論へ勝つという人間讃歌の明確な回答を出し切ることはできなかった。
ディアボロの絶対的な運命改変に対し、論理的な攻略法を見出すことができず、最終的にゴールド・エクスペリエンス・レクイエム(GER)という「無敵の能力」で倒さざるを得なかったのである。これは、最強の敵を論理で倒そうと試みた荒木氏の、作家としての限界と葛藤の表れとも言える。

運命論と「眠れる奴隷」に見出した究極の人間讃歌

その葛藤の果てに、荒木氏が出したギリギリの回答が、エピローグで語られる「眠れる奴隷」のテーマ、すなわち「すべては運命で決まっている」という決定論である。
結果だけを追い求めると、さまざまな外的要因に振り回され苦しむことになる。そして「死」という運命は誰にも変えられない。GERは「結果を変える」能力ではなく、「結果に到達させない(何も変えない)」スタンドである。
運命が決まっていても、どう生きるのか。結果を変えることはできなくても、そこに向かう「過程」の正しさを信じ、全力で生き抜くことはできる。絶対的な運命論のなかに見出したこの「生き方(過程の尊さ)」こそが、第5部が提示した人間讃歌の形であった。

第6部『ストーンオーシャン』:運命論の完結編と「受け継がれる意志」の証明

第6部は、第5部で荒木氏が完全には回答しきれなかった「運命論」に対する完結編である。主人公補正、ご都合主義はすべてプッチ神父の味方をする。物語が徐倫の味方をせず、徐倫が勝てない運命の中で勝てるのか?ジョジョ運命論に対する人間讃歌の最後の挑戦である。

5部からの連続性:敵が「主人公」になるという究極の絶望

ここで立ちはだかるプッチ神父は、物語の補正(引力)と運命を完全に味方につけている。彼は自身だけが運命を正しく導くと信じ、自身の死の運命すら受け入れる「覚悟」を持っている。
つまり、第5部のテーマであった「覚悟」すらも敵側が取り込んでいるのだ。「悪だと気づいていない最もドス黒い悪」とされる彼だが、その振る舞いや思想は、正義を信じて運命を切り拓こうとする「物語の主人公」そのものである。これが第6部における究極の絶望である。

プッチ神父の「覚悟」vs 徐倫の「覚悟」

プッチ神父の持論は「未来の運命を知っていれば覚悟できる」というものであった。
対して徐倫たちが示したのは、「未来など何も知らなくとも、自身の正義を信じ、その意志が後に受け継がれると信じることで、人は覚悟できる」という真理である。

血統の敗北と「受け継がれる意志」

特筆すべきは、運命を味方につけたプッチ神父に対し、ジョースターの「血統」だけでは勝てないという非情な現実を描き切った点である。
序盤で徐倫をかばって死にかけた承太郎は、終盤の全く同じ盤面でもやはり娘をかばい、死という運命を覆せずに命を落とす。しかし、徐倫は自身の生還という「結果」を諦め、仲間たちと共に必死に命をつないで無関係の少年・エンポリオを逃がす道を選ぶ。

「黄金の精神」の最終形態

第4部では「正義の心と努力が運命に勝つ」ことであった黄金の精神は、第5部・第6部を経て「運命を変えられずとも自身の正義に殉じ、その意志を次代へ託すこと」へと昇華された。
ジョースターの血統ではなく、受け継がれた「意志」を持ったエンポリオがプッチ神父を倒す。これこそが、荒木飛呂彦が辿り着いた運命論への最終回答であった。

おわりに:恐怖を我が物とする「勇気」の到達点

第4部でのご都合主義への挑戦と、日常の恐怖に打ち勝つ一般人の正義(町/連帯)。
第5部での悪の主人公たちが直面した絶対的結果と、そこに向かう過程の尊さ(組織/覚悟)。
そして第6部での、運命を味方につけた敵に対する、未来への自己犠牲と継承(宇宙/意志)。
荒木飛呂彦は「主人公だから勝つ」というご都合主義を排し、システム化された絶望的な運命に対して、人間がいかに立ち向かうかを描き続けた。登場人物たちは皆、理不尽なシステムや決定された運命という「恐怖」から決して逃げず、それを受け入れた上で「どう行動するか」を選択したのである。
「死」という結果は変えられなくとも、正義を信じて全力で過程を生き、それを誰かに託すこと。その自由意志と自己犠牲の連鎖こそが、『ジョジョの奇妙な冒険』が謳う「人間讃歌=勇気」の到達点なのである。

最後に。
第6部において、プッチ神父は「自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪」であった。そして、周りの人々のことなど気にせず自論を押し通し、世界を正義と幸福の名のもとに改編しようとしていた。
ジョジョにおいて明確に悪とは弱者を踏みにじること、と明確に定められている。ディアボロが「結果」にこだわることは悪ではない。しかし、その過程で好き勝手に他人を踏みにじることが悪なのだ。
プッチ神父もそういう意味では悪だった。だが、やっていることだけを見ると、まるでひと昔前のアニメやゲームに登場する主人公のようだと感じるのは筆者だけであろうか。

妹が殺された悲しみから世界に復讐するのではなく、悲しみを受け入れ、運命を受け入れて前向きに生きることが大事と悟ること。
全世界の人間を救うため、宇宙の運命ごと書き換えること。
自分の持論に沿ってそれを執り行うこと。
昔のゲームの主人公にこういうやついたよな、と思える。正義の側だからいいけど、自分の裁量で世界の運命を決めたり、自身の裁量で悪を断罪する能力を身に着けてるようなゲームあったよな、と。

4部から6部までは敵側もそれなりの理論・人間讃歌を持って行動してきた。ただし、悪側だった。そして黄金の精神を持つ主人公は「正義の道」を歩んでいた。
ここから次の挑戦が7部以降の世界である。
主人公が「正義」ではなかったら?
その考察はまた別途行うと予告して、本記事は終了する。



出典:荒木飛呂彦原作 集英社出版 ジョジョの奇妙な冒険

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